説明すると伝達するは、まったく別物だ。
プレゼンテーションでも、プロモーションでも、その違いがまったく意識されていないような気がする。
製品開発者やサービス設計者は、とにかく説明をする。
いったいそれが何なのか?それがどういう価値を持っているのか?正確に、俯瞰的に、丁寧に、印象的に、具体的に、自信を持って。
でも、本当に欲しいのは、果たして「理解」なのだろうか?それを、ちゃんと正しく、「理解」してもらうことが目的なのだろうか?
実は、それは全く間違った考え方に思える。
なぜかというと、製品の与えてくれる良いこと、有り難さ、あるいは嬉しさ、楽しさは人によってまったく違うからだ。同じものでも、受け手によってそれぞれ異なる。それは製品インタビューや試作品試用の最中に、作り手がもっとも驚くことだ。
製品企画者や開発者は当然、それぞれの理解や納得で、その製品を深く、何から何まで知っている。そして、心から愛している。
では、それをまるごと正しく説明して、その説明を、そのまま正しく理解して欲しいと思うのは正しいことだろうか?
そう、そもそも、それはとても難しいことだ。
製品の理解を右から左に完全複製するのは、とても困難だ。理解は理知的な行為だし、その前提として、その製品を好きにならないと、決してそれを知ろうとは思わない。
好意や愛着がない理解は存在しない。だから、"伝わらない"限り、"理解"は発生しない。
もしも、本質的な製品価値が「伝えられ」たら、それを知る人は、それぞれその人なりの理解や納得で勝手に使い方や使い良さをイメージし、みずからのストーリーやユースケースを描き始めるだろう。
それが自然に思い浮かび、勝手に作り手の思惑を超えて駆け出し始めるのが、まさに「伝わった」と言うことだ。
もしも、理解を求めると、結局、それはある種の答え合わせを強いることになるだろう。だが、「伝える」ことができれば、それは答え合わせではなく、自由作文の世界になる。
人は、いきなり壮大な冒険談を書くかもしれないし、コメディを思いつくかもしれないし、ラブロマンスを描き始めるかもしれない。それは、まったく自由な世界だ。
良い製品は、そういった創造的な発展をもたらせる「自由」を内包している。
人に製品理解を求めてはいけない。
人に製品価値を伝えたら、あとは人の自由に任せるべきだ。バイラル(伝染的)という効果は、本質的には、その自由な想像力の中にこそ存在する。想像力を刺激するには、「理解」を求めてはいけない。「価値」を伝えるべきだ。そうすれば、想像力は勝手に駆け始めし、ありがたいことに、作り手の期待や思惑を超えて勝手に拡がっていく。
Apple Music Event 2001-The First Ever iPod Introduction - YouTube
Jobs が最初の iPod をプレゼンテーションした 2001年のアップル主催イベント。驚くほど愚直に製品価値を伝え続けている。強烈なデモンストレーション。実に圧倒される。製品開発者は、製品を説明してはいけない。本当は、誰もそれを求めていない。その製品価値に触れて、もしそれを好きになったら、理解や納得は自ずと生まれる。