以心伝心記

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後世への最大遺物 内村鑑三 を読んで

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内村鑑三の「後世への最大遺物」を読んだ。

彼の「代表的日本人」はずっと個人的な愛読書だったのだけども、この本は全く趣が異っていて「生の内村鑑三」をその息吹のまま味わうことのできる迫真の講義録だ。

 

彼の云う人類への最大遺物とは、人が残すことのできる様々な資産や事業もさることながら(これらは非常に大切な遺産である)、その資産や事業を創り出した(あるいは作り出そうと懸命に励んできた)人の生涯そのもの、難事業を成し遂げる為の苦心惨憺に満ち溢れた人生そのものなのだ。

そう、内村鑑三は云う。 

これは、なんという味わい深い洞察だろうか?

もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。

 

しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。

人はその人生の岐路で多くを悩み、難しい制約条件下、幾つもの選択肢の中、厳しい選択を迫られる。

多くの場合、人は失敗を恐れ、リスクを避け、成し遂げられないことよりも成し遂げられそうなことを選んで先に進む。

が、そのなかでも勇気を奮い、あえて厳しい挑戦に向けて駒を進めようと抗う。

そういった時、その選択は何を根拠に為されるのだろうか?成果の期待値か?得られるだろうリターンの魅力か?考えられる名誉や名声か?あるいは個人的充足感や満足感だろうか? 

 

おそらく、ここで内村鑑三が云っているのは、下のようなことではないだろうか?

 

人生を賭けるに足る事業とは、それは同時に人類全体のなかで、自己自身として獲得することのできる、最大限の到達点、最大限の跳躍力、最大限の貢献なのだ、と。

それこそを自らが選んで、それを進んで為せ!と、いうことではないだろうか?

 

もしもそういう考え方を積極果敢に選び、そしてそれを実行することができるなら、人はどれだけ自由になれるだろう?

その様子はまったく想像に難くない。つまり、そういう選択は相対的な評価における他人任せの選択などではなく、自分だからこそ為すことのできる、主体的な決断であり、覚悟であるのだから。

 

同じようなことを云っている、とても良い言葉を偶然今日見つけた。

“とても小さい相手と戦って我々が勝っても、その勝利は我々を小さくする。我々が欲するべきは敗北であり、より素晴らしい相手に継続して負け続けることなのだ。”   

— Rainer Maria Rilke

そう、何かを獲得することは、決して他者評価のなかに見いだすのではない。自らの為すべき価値観・哲学の反映された、その人ならではの到達点を目指す、「渦中」にこそ存在する。敗北の連続とは、それこそ為すことの困難さであり、常に課せられる大いなる行為の連続に他ならない。

 

簡単に為せること、容易に実現できることに埋没することは、やがて人生を虚しくする。

本当の勇気とは、為すことの困難さを乗り越えて挑戦しようとする、奮闘努力にこそ宿るものに違いないだろう。

 

詩人のリルケは下の引用のように語っているのだが、これはとても深い洞察のように感じるのだ。

ある事が困難だということは、
一層それをなす理由であらねばなりません  

— Rainer Maria Rilke

 

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