ツイッター精神の再来
改めて、ツイッターは見直されるべきだと思う。フェイスブックが持っていないもの、グーグルも持ち得ないもの、それがツイッターにはある。
世界規模で感情や思考の赴くまま、好き勝手にボール(ツイート)を投げられる場所。そして、それを自由に受け止められる場所(タイムライン)。
本来ツイッターの持っている開放的自由環境(大いなるフロンティア、人間的融和の場)は、もはや口汚くののしりあう感情のはけ口、あるいはただ球を投げるだけで、そこにキャッチボールを求めない単なる宣伝の場に堕してしまったように見える。でもそれは本来ツイッターの持っていた自由闊達さ、楽しさ、美しさ、あけすけな関係性を即時に構築できる創造性からは、遥かに遠いように思う。
ツイッターはスケールしすぎたことで愚民政治の衆愚制度に陥ってしまった。が、今であればディープラーニングを駆使することで膨大なコミュニケーションパターンから、より良い関係性を即時最適に調整することが可能だろう。かつてまったく機能してこなかったグループ機能(静的な人脈プールは価値を持たない)、あるいはハッシュ機能(ハッシュによる文脈形成は余りに非力すぎる!)なども機械学習の良さを活かせば再構築できる可能性があるだろう。
非常に残念なことにサードパーティアプリをほぼ締め出し、APIの機能を削りに削ってきたツイッターには、その偉大な情報環境を人工知能の巨大な実験場として提供することのできるフリーマインドがない。
が、もしいったんそれを再開することができれば日々の人間的活動データを膨大に求めている人工知能ベンチャーにとっては大きな福音になるだろう(もちろん、ベイビーもそうだ!)。僕はそういう時代の再来を願ってやまない。そして、もしそれをツイッターが行わない場合には誰か他の起業家がそれをやるべきだと思う。