セルフブランディングの弊害と制約について
自己認識と自分について
「グーグルに挑戦する男」カッコ笑で頭出しに使われることもあるけど、もう少しマシと言うか、"がんばれ!"っていう期待を込めて、そう言ってくださる人もいる。
でも、自己認識としては、そういう風に思ったことは未だ無い。本音を言うとそう言う位置付けとかブランディングはある種の道具として使っているだけで、グーグルに挑戦するんだ!と言うマインドで事に挑むことはない。
ただ、きっと、世界規模でヒットを飛ばそうと言う意志で製品をやろうとすると、多くの場合は必ずグーグルにぶつかるだろう。または、グーグルの事業領域と全くぶつからずに何かテクノロジー製品をやるのは難しいだろう。
あるいは、反面それ(グーグルの存在しないテック領域)を見出したとして、その見出したという事実そのものが「グーグルを乗り越えようとするスタートアップ」という様な位置付けで捉えられる側面もある。
だから、何か世界規模で売れそうなテクノロジー製品をやろうとした瞬間に「グーグルへの挑戦」という枕詞が付いてしまうのは仕方がないのかもしれない。
そして、同時に、そういう枕がつくのは良い面もある。つまり、その時点で世界商品であるという認知を獲得できているわけだ。すると、事業規模や投資規模もグローバルのスケールであることを対外的に示すことが容易くなる。製品のプロモーションと考えれば、コスト対効果は極めて高いやり方だと言える。
一方、弊害もある。それは、グーグルとの対立軸という制約が科せられることだ。過去にも検索エンジンの対抗馬としてグーグルの弱みを突くような製品群は多数存在した。でも、それらはグーグル自体の努力で解消されてしかるべきものだったりして、それらのスタートアップは、結果グーグルのパッチ当てに貢献した様な形になってしまった。
または、もっと言うと、本来その新製品がグーグル対抗という以上の価値観や意味合いを持っていたとして、グーグル対抗軸で捉えることによって、その本来の可能性や潜在価値を消し去ってしまう面もある。
ソーシャルネットワークやメッセージングアプリが、従来のグーグル的な価値観とは離れた場で育ったからこそ、のびのびと生育した過去を考えると、グーグル対抗軸から外れることの良さや強さを認識できるかもしれない。
今、自分自身のマインドとしては、グーグルとの比較などは全く抜きで、これは本当に物凄いと言われるような製品を世界規模で育て上げることだ。
もちろんそこでグーグル的価値観やグーグルとの対立軸で受け止められたり、認知比較される場合も多いだろうし、それを全く気にしないでいるというのはとても難しいと思う。そして、それを全く度外視するのは(もしかすると)不自然だろう。
でも、対外的な設定に囚われて本質的な製品開発を忘れてしまったり、何か脇道に逸れたり、余計なことをするより、自己本来の極めるべき価値を極めるべきだと思う。そして、望むらくは自分の為し得た製品を他からのベンチマークにされる(あの製品を越えたいと思われる)ような高みに登りたいものだと強く思う。
下は頼山陽(日本外史の著者)13歳の詩なのだが、こういう想いを忘れずに仕事に励みたいものだ。
十有三春秋
じゅうゆうさんしゅんじゅう
逝者已如水
ゆくものはすでにみずのごとし
天地無始終
てんちしじゅうなく
人生有生死
じんせいせいしあり
安得類古人
いずくんぞこじんにるいして
千載列青史
せんざいせいしにれっするをえん