Zune VS iPod - デバイスが文化運動だった... 新しいハードウェアをなぜ開発するのか?
_ 歳をとって分かったことは動機の重要性なんだ。Zune の失敗はマイクロソフトの連中が音楽、芸術を我々ほどには愛していなかったからだよ。我々は心から音楽が好きなのでiPodを自分のため、自分の友達や家族のために作りだした。彼らが快適に使えるようにと。だからどれだけ時間をそれに費やしても気にならなかったのだ。
これはジョブズの伝記に出てくる「Zune VS iPad」のくだりなのだが、もしもここでのジョブズの言葉をテレパシーに当てはめるのならそれ(iPodに於ける音楽に相当するもの)は「ソーシャル・コミュニケーション」だろう。そして iPodに於ける「1000 Songs In Your Pocket」は、Telepathy Oneでは「Wear your love」がそれに当たる。そもそも人はコンピュータを身につけたいのだろうか?これは非常に困難な問いかけだろう。僕らはそれよりも「ウェアすることで、人と人が親密に繋がり合える」デバイスを開発して世界中に向け届けたいと想った。
逆に言うと、そういった根本哲学がなくてデバイスをデザインすることが出来るだろうか?プロジェクションのサイズは?搭載するカメラのピクセル数は?カーネルは何で?コントローラーチップは何で、ワイアレスモジュールは何で、バッテリーはどういう物で?そもそもコアアプリとユースケースは何だろう?
プラットフォーム思考や顧客価値の継続的な開発はもうかなり普及した考え方だと思うのだけど、それ以前に何を価値として中心に据えるのか?その哲学こそが独自の価値を思考していない限りは製品のフォルムもスペックも決定できない。なぜなら、あらゆるハードとソフトは顧客価値の実現と向上にこそ仕えるべきであってメーカーの自己満足や社内政治のために存在するわけではない。
テクノロジーを通じて人が人と、どんな状況でもお互いより親密に繋がり合えることが出来たら素晴らしいだろう。お互いがお互いをより簡単に即分かり合えるようなデバイスを創造出来たら最高だ。その思い以外にテレパシーを開発する意味は無いと感じる。これだけ物質的充足が進み、むしろ逆にどうして余計なものを減らそうか?という時代には、そういった哲学的な問いかけを喚起するようなテクノロジーこそを真面目に検討するべきだろう。
iPodはアートとも言えるミニマルでイメージ豊かなデバイスだった。それは単なる機能や性能ではなく、ある種の文化運動にも見えた。ファッションでありライフスタイルだった。Telepathy Oneが志向するべきは、そういった装置的価値を超えた文化運動だと思う。そういう考え方で開発しない限り、それは新たなZuneにさえなれないだろう。
注釈) ZuneはMSの一大失敗作だが、とは言えあれだけの開発とマーケティングを実施することは普通のスタートアップには出来るはずもなく、逆説的にはあれだけの失敗をする権利は通常はあり得ない。だからこそ、哲学のない当たり前の製品を普通に手掛けるだけではiPodどころかZuneにすらなり得ない。