以心伝心記

Technology is anything that wasn’t around when you were born.

見えないから価値がある。

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製品や事業についてコメントを求められることがある。コンテスト審査員や、インキュベーションの助言者になって欲しいと言われることもある。だが、そういうことはそもそもとても困難で、簡単に受けられるものではない。

だいたい新しくて凄いものと言うのは前例や規範がないからこそ、良い。本質的に凄いことや本質的に新しいことはまったく容易ではない。それらは独自の世界観で成立していて簡単に解き明かせない。だからこそ、良い。起業家の人生を投影した、何か理解しがたいが凄いものを、まったく無関係な自分が手前勝手にもっともらしく述べるのは実に難しい。

詩人のリルケがとっても良いことを言っている。

誰もあなたに助言や手助けはできません。
誰も。
ただ一つの手段があるだけです。
自らの内に入りなさい 。

一見間違って見えること、とっても無軌道に見えること。成功しそうもなく、非常に危うく見えること。一見、違和感ばかりで批判どころか非難の言葉すら投げたくなるようなこと。そういった物事の方がよほど可能性がある。

たとえば、グーグルの真似、アマゾンの模倣、フェイスブックの再現。そういう行為にいったいどんな意味があるのだろうか?

そういうことに人生を賭けるのは果たして楽しいものなのだろうか?異常だと言われても、とんでもなく凄いことをじっと耐えながら挑む人の方に価値を感じるのは、何か見ることのできない高い頂の光景とか、未だ出かけたことがない大陸とか、夢にしか出てこない理想の人とか、そういったものへの憧れが拭い難くあるからだろうか?

砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだ。
What makes the desert beautiful is that somewhere it hides a well..

 これは星の王子様の一節なのだけど、冒険旅行というのは、きっとそういうものだろう。見えないからこそ価値がある。だからこそ、旅をする意味がある。

見えないものを懸命に追い求めることは、とても価値があると想う。よく正体が分からないのだけど、強く惹かれる何か。そこにこそ、きっとその起業家だけの何か大切な物が存在する。そういうことを自分はひたすら追求し続けて行きたい。

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恐怖心という原動力

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多くの場合、回答は恐怖心の中にある。

何かを恐れて、それから逃げようとしている時、もしも自分の視点を変えられるなら、その恐怖こそが解決すべき課題だったと気づく。

それどころか、その恐怖心こそが自分の行動の動機付けであったことに気づく。

 

考えてみよう。たとえば「コミュニケーション」というのは多くの場合、とても楽しく素敵な行為だ。が、一方では困難極まりない、日々のトラブル発生源でもある。人は人とコミュニケーションをせずには生きていけない。が、そこからは数え切れない困難を引き受けざるを得ない。

コミュニケーションは極めて楽しく、生きていく上での偉大なエネルギー源だ!でも、その裏返しとして、たとえば人からなかなか理解されない時。人から欺かれてしまって落胆した時。大事な人と心を交わすことができずに、強烈な孤独感にさいなまれた時。そういったとき、コミュニケーションは人生の困難事として大きく立ちはだかる。

 

確かにコミュニケーション問題の解決は人類共有の大きな課題だろう。一方、それは恐らく永久に片付くことのない無限回数のルービックキューブのようなものだ。

だから、起業家がその課題に強く惹かれ起業を決意するとき、強い思いを抱いた時点の理想像と、それに囚われて避けがたく心中に抱く強い恐怖心の間には、なんら距離はない。むしろ、その恐怖心の強さこそが、起業家の行動の強い動機付けになる。

 

自分の場合は母親との距離感や、もしかするとその関係が断絶するのではないか?という恐怖心が、とても根強いテーマとして心中にあり続けた。それに気付いたのは、たまたま共同創業者と語り合っていた時なのだけど、起業の動機付けを内省してようやく辿り着けた。つまり、そう簡単には気づけない事実だった(恐怖心の内側を覗き込むのは恐ろしいことだ)。

そして、その恐怖心による囚われは、単なる起業の動機付けや製品開発への拘り(あるいは偏り)に留まってはいなかった。それは、起業時のチーム作りや起業後のチーム内での関係作りや組織のマネージメントにまでも大いに影響を及ぼしていた。

 

自分自身のコミュニケーションのスタイルそのものに、その恐怖心がとても強く影響していたことに驚きながら、同時に、そこには両側面があると感じた。

つまり、その恐怖心は固有の強みを自らに与えてくれている。たとえば、コミュニケーションを通じて関係性を構築する能力を磨いてくれている!一方その反動として、コミュニケーションが機能せずに関係性が断絶することへの恐怖心が強すぎる!それは同じ根から発生している両側面だ。表裏一体の現象だ。

 

それは結果、ある種のいびつな力関係をもたらし、チームの信頼関係を作っていく上での弊害にもなる。あるいは、良い面としては、自由闊達でフランクな場を作るという点では非常に貢献してくれている。要するに、強みと弱みとは、あるひとつの恐怖心を起点にして成立していたという発見だったのだ。

自分の中には、まだまだ確たるソリューションは存在しない。無いのだけども、少なくともそういった恐怖心をみつめて率直に向き合わない限り、その強みも弱みも中途半端ななまま、単なる恐怖からの逃避に終わってしまう。あるいはその恐怖心を無視しようとする浮遊(高揚)にしか終わらないだろう。

 

良い面でも悪い面でも、強い恐怖との向き合いからは多くの発見と理解が得られるだろう。そして、それは起業家としての特性や傾向を自ら把握して、その固有の性質に根ざした、固有の製品を手がけるための良いガイドマップになるのだろうと感じるのだ。

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MESH 新しい道具 - 日常的な発明のためのDIY KIT - INDIEGOGOで買えます。

新しいアイデアを育んで、人にそれを届けるのは難事業です。

MESHは、それに果敢に取り組んでいます。

 

人が新しい道具を手にいれる。

それを理解して使いこなす。

そして、実生活における新しい発明につなげる。

それを非常に素早く、気持ち良く、創造的に行えること。

それをイマジネーティブに、高い品質で、自然なカタチで届けること。それを懸命に行おうとしています。そして、しかも、それを卓越した、非常に新しい方法で実現しようとしています。そう、何か非常に凄いことをいとも簡単に成し遂げようとしています。

 

でも、皮肉なことに、かえって、その非常に大変なことを、とっても容易に成し遂げてしまいそうなのが、MESHの理解され難さかも知れません。

つまり、世の中はエンジンや車輪やハンドルやエアバックを作っているような段階なのに、もういきなりオートマのファミリーカーを市場投入しちゃうような、そんな迅速さや凄みが、かえってMESHを分かり辛くしているのかも知れません。

 

さて、とはいえ、目の前で、もうMESHを手に入れられてしまうという幸運は、ぜひとも生かしてみるべきと思いまして...。INDIE GOGOで予約購入できますから、皆さんご遠慮なくおひとつだけでもお買い上げください!(情報開示:そのことによる僕の経済利益はありません)

 


MESH: Creative DIY Kit for the Connected Life | Indiegogo

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誰も考えなかったことを敢えて行うこと - Think Different 2015 -

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何かがコツンと、乾いた地面にスコップが当たるような、そういう感触がもしも得られればしめたものだ。

 

それは自分の中の地層のどこかにヒットしたと言うことだから、恐らく、誰でもない、自分だけしかやらないだろう、何か大切なモノに辿り着けている。
でも、そういうモノはありがちな考え方や類型には全く合わないので、現実にカタチにする手前で、先ずアイデアを正確に認識し、深く理解するのがことが必要だろう。

 

そして何かそういったモノをうまく探り当てたとしても、正しく表現し、納得いく状態に引き上げるのはまったく容易なことではない。
微妙な違和感や食い違いを敏感に感じ取って、しっかり腑に落ちるところまで噛む砕くべきだ。そのうえで、最終的にどういう状態まで持っていくのかを自問自答して丁寧に仕上げていくことが、どうしても欠かせない。


こういった(内部から掘り起こすような)仕事の場合には、必ずそういう繊細さが必要だと思う。とはいえ、そういった自分しかやらないだろう特異で規格外なモノ以外は、本来、余り価値が無いだろう。

もし、誰もがいずれは合理的に気づき、簡単に試みることができるような規範内に収まる製品であれば、それらは結局、物量勝負や速度勝負に陥ってしまう。それでは戦略的に成功を期し難い。しかも、それは人生を賭けるに足る大きな仕事にはなり得ない。

自分しかできない特異な仕事は成功した時の大きさも満足も桁違いだろう。一方、全く誰も思いつかなかったようなことを、孤独や無理解に耐えながら、それでも物にしたいと抗う精神はどこからやって来るのだろう?あるいは、何を原動力にし、何を糧に働き続けられるものなのだろう?

 

かつてThink Differentキャンペーン(Apple復活の際に非常に影響力のあった、とても優れたコマーシャルキャンペーン)に関しての取材に答えているスティーブ・ジョブズの言葉がとても示唆的だ。本質的な価値を持つ仕事に関しての、とても深い洞察だと感じた。

大人になると、この世界とはこういうもので、自分の人生も、その中にある人生を生きることだ、と言い聞かされることになりがちだ。壁を叩くようなことはしすぎるな。良い家庭をもって、楽しみ、少しばかりの金を貯めよう。

そういうのは、とても制約された人生だ。たったひとつ、単純な事実に気づけば、人生は可能性がずっと開けたものとなる。それは自分を取り囲んでいるすべてのもの、人生と呼んでいるものが、自分より賢いわけではない人々が作り出しているということだ。

 

周りの状況は自分で変えられるし、自分が周りに影響を与えることもできるし、自分のものを自分で作ることも、他の人々にもそれを使ってもらうこともできるのだ。人生だと思っていたことも、突いてみることができ、自分が何かを押し込むことで、反対側で何かが突き出たりするのだと悟り、人生は変えることができると理解すれば自分で人生を造形していくことができる。

それこそが、おそらく何よりも大切なことなのだ。それこそが、人生はそこにあり、自分はその中で生きるしかないという誤った考えを揺さぶって振り払い、人生を抱きしめ、変化させ、改善し、自分自身の痕跡を刻み込むということなのだ。

私はこれはとても大切なことだと思うし、どのようにそれを学んだかに関わらず、それを学んだ者は、このいろいろな意味で厄介なことがらを抱え込んだこの人生を変化させて、より良いものにしようと望むことになるのだと思っている。一度このことを学べば、それまでのままではいられないのだ。

私たちは自分の存在を及ぶ限りの広さで受け取らなければなりません。すべてのことが前代未聞のことでさえも、その中にあり得るのです。.....これは詩人のリルケが残した言葉だけど(最近とても惹かれる言葉です)そのような自己の捉え方は考えようによってはとても怖いことだ。

 

できれば安心安全に、現在の生活の延長にすべてを収めたいものだし、無限大の可能性はむしろ人を不安に陥れる。ところが、何事も為せることができるという雄大な視野に立った時、人はそれから目を背けられないし、その先にある景色を見たくなるものだと思う。

 

Appleの「Think Different」が20年近くの時間を経ても色褪せないのは、そもそもそういった人の抱えた根源的な希望や、遠大な理想を、映像的なリアリティを持って力強く描き出してくれたからかも知れない。誰も考えなかったようなことを敢えてやろうとする人への勇気を喚起してくれるのは、改めて素晴らしいことだと感じる。

 


Apple Confidential - Steve Jobs on "Think Different" - Internal Meeting Sept. 23, 1997 - YouTube

 

後世への最大遺物 内村鑑三 を読んで

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内村鑑三の「後世への最大遺物」を読んだ。

彼の「代表的日本人」はずっと個人的な愛読書だったのだけども、この本は全く趣が異っていて「生の内村鑑三」をその息吹のまま味わうことのできる迫真の講義録だ。

 

彼の云う人類への最大遺物とは、人が残すことのできる様々な資産や事業もさることながら(これらは非常に大切な遺産である)、その資産や事業を創り出した(あるいは作り出そうと懸命に励んできた)人の生涯そのもの、難事業を成し遂げる為の苦心惨憺に満ち溢れた人生そのものなのだ。

そう、内村鑑三は云う。 

これは、なんという味わい深い洞察だろうか?

もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。

 

しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。

人はその人生の岐路で多くを悩み、難しい制約条件下、幾つもの選択肢の中、厳しい選択を迫られる。

多くの場合、人は失敗を恐れ、リスクを避け、成し遂げられないことよりも成し遂げられそうなことを選んで先に進む。

が、そのなかでも勇気を奮い、あえて厳しい挑戦に向けて駒を進めようと抗う。

そういった時、その選択は何を根拠に為されるのだろうか?成果の期待値か?得られるだろうリターンの魅力か?考えられる名誉や名声か?あるいは個人的充足感や満足感だろうか? 

 

おそらく、ここで内村鑑三が云っているのは、下のようなことではないだろうか?

 

人生を賭けるに足る事業とは、それは同時に人類全体のなかで、自己自身として獲得することのできる、最大限の到達点、最大限の跳躍力、最大限の貢献なのだ、と。

それこそを自らが選んで、それを進んで為せ!と、いうことではないだろうか?

 

もしもそういう考え方を積極果敢に選び、そしてそれを実行することができるなら、人はどれだけ自由になれるだろう?

その様子はまったく想像に難くない。つまり、そういう選択は相対的な評価における他人任せの選択などではなく、自分だからこそ為すことのできる、主体的な決断であり、覚悟であるのだから。

 

同じようなことを云っている、とても良い言葉を偶然今日見つけた。

“とても小さい相手と戦って我々が勝っても、その勝利は我々を小さくする。我々が欲するべきは敗北であり、より素晴らしい相手に継続して負け続けることなのだ。”   

— Rainer Maria Rilke

そう、何かを獲得することは、決して他者評価のなかに見いだすのではない。自らの為すべき価値観・哲学の反映された、その人ならではの到達点を目指す、「渦中」にこそ存在する。敗北の連続とは、それこそ為すことの困難さであり、常に課せられる大いなる行為の連続に他ならない。

 

簡単に為せること、容易に実現できることに埋没することは、やがて人生を虚しくする。

本当の勇気とは、為すことの困難さを乗り越えて挑戦しようとする、奮闘努力にこそ宿るものに違いないだろう。

 

詩人のリルケは下の引用のように語っているのだが、これはとても深い洞察のように感じるのだ。

ある事が困難だということは、
一層それをなす理由であらねばなりません  

— Rainer Maria Rilke

 

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プログラムを書くという最高の快楽 - 自分が二十歳だった頃にとってもハマっていた事を改めて振り返る -

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ソフトを書くっていうことは、それを覚えた当時から思考を表現して伝達することだと感じていた。文書を書くよりも、より正確に、より動的に、より完璧に思考を表現して伝達することができる!これがなにより凄いと思っていた。

ソフトを書くという行為そのものは実は多くの側面がある。収入を得る手段だったり、好きなことを形にできる趣味であったり、生産性の道具で、創造性の媒体で、仕事の手段で、自己実現の方法で、学習のプロセスで、計算のための記述方法で、、など様々だ。

だが、個人的には(当時哲学科の学生だったからか)知識を動作する状態で記述できるだけでなく、それをそのまま直接的に受け渡せるという、完璧な思考のメディアであると感じていたのだ。

思考そのものをダイナミックに表現できて、しかも、それをそのまま受け渡せる最高のメディアだと。

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それを展開すると、たとえばどんな本でもその論理構造をプログラムに置き換えられるだろう。

あるいは、それは法律だろうが商習慣であろうが、はたまた教育であろうが道徳であろうが、何であったとしてもコードとして外部化し、共有するだけでなく、その書き手本人以外が、直接それらを書き換えられる(上書きできる)素晴らしく効果的な、人類的規模で利用できる思考巨大メディアになり得るのだと確信することができた。

 

そういう直感の得られた背景は、当時自分が仏教的唯物論やタオイズムの二進法的世界観やヒルベルト記号論理学などにとてもはまっていたせいかもしれない。

ライプニッツからヒルベルト、そしてゲーデルチューリングノイマンを通じて電子頭脳として結実していく、西洋的な普遍知識を巡る系譜が、なにより自分の心を捉えていた。人がその知恵を透明に、脈々と受け渡し、お互いの理解と発展を促進していこうとする善い心の発露をそこに観たのだ。だからこそ、その運動の究極系としてのプログラムには、になにより可能性を感じていたのだ。

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だから、プログラムを書くということは、本来すごく崇高で気高い精神の発露のように思えて仕方ないし、また、オープンソースという概念は、それ自身プログラムのコアにある価値観の表現として極めて自然なスタイルであると言えると思う。

自分自身の今のテーマとしては、そういった人類的規模における知識の伝達および発展メディアとしてのプログラム行為を再度、捉え直す。

特に創造的なプログラミングのパラダイムを軸足として、特に「物と心の相互作用」、つまりIoT( Internet of Things )的な文脈で、いかに素晴らしい開発環境が表現できるのか?と言う視点。そこからもう一度、自分の仕事を見直してみたいと思ってる。

考えてみると、ゲーデル不完全性定理がとても話題になっていた学生時代に、記号論理学や易経に虜になっていたり、やがて、たまたま偶然プログラミングに没入する機会を得ることのできたのが二十歳の頃。それはまさに人生の大きな転換点だったんだと、今更の様に思う。そして、何がいったいどう人生に作用するのか?なんて、その瞬間には本当に全くわからないものだなあと思うのだ。

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創造的プログラミング序説(草案)

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創造的プログラミング。現在の生産的(時間内の生産効率を上げることが最上の価値)ではなく創造的(独自価値で創造的表現を行うことを主要な価値にした)プログラミング。

製品性のキーワードは、かつての”便利さ”(計算が速いとか、手間が減るなど)から快適性(使い勝手が良い、体験性が優れているなど)に移った。

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が、それはやがて”創造性”の表現に移っていくだろう。もはや、ひとは便利や快適では動かなくなりつつある。創造的表現としてのプログラムは新しくて旧い。なぜなら、創造的行為そのものは非常に長い歴史を持っているからだ。

プログラムの本質的な醍醐味は、何かを完璧に支配することに他ならない。

コントロールとエディット。やりたいことを意の向くまま表現する。それを極めれば、神様のような支配ができることが最も望ましい。「光あれ!」というコマンドで暗がりが明るくなることも創造的な表現になる。

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何かをコントロールできること、そして思いのままエディットができること。これらを追求することは、もはや便利や快適を超えた創造性の領域になる。

創造性に重きを置いたプログラミング。創造的プログラミングは今後の大きなテーマになるだろう。従来は子供の教育的情操効果に注意が払われていたものが、いまや大人もそれを楽しめる世界がやってくるだろう。

従来、プログラムはまずは生産性、すなわち便利さの実現をいかに効率的効果的に行うのか?が主要課題であり続けた。

それがやがて、快適な環境上で、利用者(自分が最初の利用者だ)に快適性をもたらすということが大きな課題になった。それはつまり便利さや生産性の追求が陳腐化した、自然な結果だと言える。

であるなら、当然ながら快適な環境上で快適な体験をもたらすことに集中する世界すらも、やがてより高次の次元。つまり、創造的な環境で創造性の表現(独自の表現を思うままできる世界)を最も大切に考えるプログラミングが台頭するだろう。

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それは、比喩的に言うなら「発明家の世界」から「魔法使いの世界」へと飛躍することに他ならない。

そして、いまや、その魔法使い達はコンピューター画面内の活躍に留まらず、現実世界の物体さえ巻き込んだ魔法を使える世界に住んでいるのだと言える。それがIoTと結びついた、新しいプログラム言語の創出に強く惹かれる理由でもある。

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