パーソナルロボットとその生きる社会性
「視点を変えろ!」ベイマックスで窮地に追い込まれた、主人公ヒロが思わず口にした言葉だ。
現在のテクノロジー製品の多くは「ユースケースと必要性」の呪縛に囚われていると思うことが多い。
ユースケースが確実に存在すること、人がそれを使う必要性が明らかであること。これはテクノロジー製品が成功するうえで欠かせない存在意義なのだけど、一方この考え方にあまりこだわり過ぎるとイノベーティブな製品は世に生まれる機会を失ってしまう。
未だ存在しない製品のユースケースと必要性を描き出すことは時として非常に困難だ。結果、ブレークスルーを生み出す前に分かりやすすぎる製品価値の定義に収まってしまうことになる。パーソナルロボット(あるいはコミュニケーションロボット)の場合もそうなのかも知れない。
人がロボットを(物欲以外で)欲する理由をユースケースと必要性から解き明かすことは、時として不可能事に思える。そこに存在しないものを対象にデイリーユースケースを考え、納得行く理由で必要性を明らかにすることは決して簡単ではない。
では、ヒロに倣って視点を変えてみよう!
そう、もしそれが存在するとして、そのパーソナルロボットたちはどういう風に世の中に受け入れられて溶け込んでいるのだろうか?
その様子を想像して表現してみよう!それはどう人と打ち解け合うのか?どう人と心を通わすのか?どう社会に入っていき、どのように社会の一部として機能しているのだろうか?その未来像を考えてみよう!
一ヶ月ぶりに戻って来たサンフランシスコで試作品を持ちだして、衆目にさらしてみている。
なるほど、ロボットを巡る視線や反応は日本とは大きく異る。それは単純に社会的な振る舞い、環境の違いだろう。
人が何に興味を示し、そしてどう反応するのか?へのブレーキがあまり無い社会では、好奇心をむき出しに人に質問したり、あるいは面白いと思った対象に言及したり話題にしたりすることへの抵抗感が極めて少ない。
というか、ほとんどそこには心理的なバリアが存在しない。パーソナルコンピュータを産んだのはこのまさに社会だけど、もしかしたらパーソナルロボットを生み出すのも同じくここなのかも知れない。
テクノロジーを未来に持ちびく精神というのは、そういう好奇心むき出しでもまったく問題のない社会なのだろう。そういえばグーグル・グラスを着用して市内を歩き回っていたら普通の(いや、ちょっとお金持ち風の)オバちゃんから散々質問攻めにあったなあ!(苦笑)