TEDx Kyotoが無事終わって東京に戻ってきました。本当にこの間大変だったのですが、ようやくひとごこちつきました。改めて考えるに、テレパシーのアイデアを自分の言葉としてしっかりお伝えできる機会を持てたのは本当に有難かったです。
登壇は早くから決まっており、準備する時間は相当有ったのですが、最終スクリプトと最終スライドに到達したのは、なんと発表当日の朝でした。
それまで自分で書きなおしたスクリプトは(プレゼンテーション・コーチの協力で書き上げたバージョンも含めると)都合三案。
それぞれ何回にも及ぶ文案の手直しとスピーチのトレーニングを積み重ねながら作成を進めていたので、直前の練習も含めると冗談抜きで500回位は、プレゼンの練習を繰り返したんじゃないでしょうか?
TEDではセールスやファンドレイズのための自己宣伝的なパフォーマンスを厳しく禁じていますし、自分としてもそんな姑息な機会に使いたいとは全く思いません。
さらには、オリジナルのアイデアを自分の言葉で非常に簡潔に伝えることを前提にしていますから、借りてきたアイデアや自分の内部から放射されないような言葉では、全く成り立ちません。
その一方、内容も表現もパフォーマンスも演出効果も基本的には自由です。TEDx Kyotoからのメンタリングやオブザーブは期待できないので、全くゼロから最高のプレゼンに持って行くまでは完璧に自己責任です。
TechCrunchだと、あくまでファンドレイズの為のビジネスプレゼンですから「起業家の自我」が問われるようなことは有りません。SXSWのプレゼンの場合も、基本的には自社と自社製品の価値観・世界観をセンターに据えて発表することが当然の前提だったりしますから、そこに迷いとか揺らぎは有りません。当然そのマーケティングのロジックの範囲内で最高のパフォーマンスを狙うというだけです。
ところが「ideas worth spreading」つまり広める価値のあるアイデアというTEDのコンセプトに立脚する場合、ある意味、人類史的な見地から見て僅かだとしても他には無い、インディビジュアルな価値ある提案が話されるべきです。
逆にそういう固有のアイデアを伝えられる喜びや快楽を最大限パフォームする「創造の場」ではないかと思います。
といった前提で考えた場合、本当に厳しいなと思ったことが幾つかあります。まず、一つには「自分語りの困難」。そして第二には「言語の選択」。そして「正直であることとビジネスの間」です。
まず、僕は自分語りが本当に苦手です。自分の中に何もないという諦念が身に沁みている(大学時代にニーチェと仏教哲学にハマった影響かも知れません)ので、何か自分の中にあると主張することには物凄い抵抗感が有ります。
そして、英語の問題。個人的には英語でしゃべることには全く抵抗がなく、むしろ大好きなのですが、上のような(人が固有の価値あるアイデアを表現するという)実にエッセンシャルでパワフルなプレゼンテーションをとても自然な態度でこなせるだけの力は僕の英語には有りません。
さらに、最後のポイントですが、まだ完成していない製品のメーカーであり、現実には何も成し遂げていないと言って良い起業家の自分が、嘘をつかずに(制約条件が多い中で納得性の高いアイデア共有をいかに行うのか?いくら飾っても無理があります)自らのビジネスを表現するというのは難題中の難題でした。
ひとつめの自分語りの困難は「とにかく無いなら無いなりに無いことを前提に語れることを絞り出そう」と諦める他有りませんでした。ふたつめの英語に関しては「コーチと翻訳をプロにお願いして最大限可能なことをやり抜こう」と考えました。
とにかく自分のベストを尽くす他ないという諦めです。とにかく日本に戻るまで、できるだけシリコンバレーで時間を作ってトレーニングを受けました。また、翻訳は優秀なテレパシーメンバーがとても高速に打ち返してくれました。
そして三つ目(人間としての正直さと自分のビジネスとの折り合いを付けること)ですが、これは本当に難題でした。当然、TEDを通じて世界に広がる以上は業務上取引や特許とか意匠権、ビジネスモデル、製品価値に関わる秘密は一切お話できません。
でも、そこを完全に封印するとすれば、テレパシーに関してお話できることは本当に僅かしか有りません。簡単に言うと既に知られていることに限られます。それは両手両足を縛られてリングに上がるような感じです。
が、これはもう仕方のない事なので、「視点を拡げてウェアラブルコンピュータ全体に関して、その未来像を伝えることに徹しよう」と諦めました。逆にそう諦めることで、グーグル・グラスも含めたウェアラブルコンピュータ全体の産業をリアルに思い描いてみよう!という積極的な視点が生まれました。
以上を踏まえて、直前になんとか成立したスクリプトを下に掲載します。その英語版は前回ブログに掲載したとおりです。
貴重な翻訳テキストはテレパシー・ニューヨークの森茉莉さんによるものです。時差が有るのをいいことに24時間体制で英語への翻訳を突貫工事した訳ですが、最後の最後まで磨き上げられたので、自分としてはかなり良いプレゼン・テキストになったと思います。
そして、当日の朝になんとか間に合ったスライド収録の素晴らしいイラスト群はグラフィックレコーダーの清水さんの手に依るものです。京都でイベント二日前に打ち合わせてから怒涛の勢いでこのような素敵なイラストを間に合わせてくださった清水さんには感謝しても感謝しても全く感謝し切れません。
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僕はこの京都で、哲学科の学生だった頃、あらゆる人間がネットワークされて、お互いがお互いを瞬時に理解し、協力し合えるような世界をイメージしました。
それは龍安寺近くの四畳半の部屋でプログラミングと哲学にハマっているときに自分に訪れたビジョンでした。それが刹那にひらめいた瞬間。それこそが今の自分のキャリアのスタートです。
そして、それは、今開発しているテレパシーワンと言うウェアラブル・コンピュータの思想にそのまま繋がっています。
2020年、東京でオリンピックが開催されます。1964年の東京第一回目の時、僕はまだ一歳でした。その時、日本では大きなイノベーションが起こりました。
ひとつはマス・トランスポーテーション。つまり新幹線の普及です。そして、いまひとつはマス・コミュニケーション。 つまりカラーテレビの爆発的な普及ですね。
そこからこの2000年台には、いわゆる情報革命が勃発しました。パーソナルコンピュータとインターネットの発明、そして世界的な普及と浸透が猛スピードで進みました。
かつて幅を利かせていた巨大コンピュータは手のひらに収まり、一部の人間のものだったネットワークは誰もがアクセスできるモバイル・インターネットに進化しました。
モバイル・インターネットとスマートフォンは、誰もがどこでも情報にアクセスできる非常にフラットでオープンな共有の時代を創出しています。
さて、2020年の東京をイメージしてみましょう!手のひらで我々を相互に接続してくれるスマートフォンは、もっと小さく軽くなり、一方よりパワフルで高速度のウェアラブル・コンピュータへと進化を遂げているでしょう。
スマートフォンはとても便利ですが、ポケットから取り出し、アンロックし、アプリを起動し、幾つものメニューを操作して、ようやくやりたいことが出来ます。
それは瞬間的に欲しい情報にアクセスしたり、その場その時に、人と人が親密にコミュニケートできる理想的な時代の「入り口」に有る存在です。
そして、そのテクノロジーは毎秒毎秒進化を続けていることは、皆さんご存知のことですね!(時計型とかグラス型とかどんどん登場してきていますよね!)
2020年代には、人が常に情報にアクセスでき、人と人がお互いコネクト出来、コミュニケートすることの出来る、美しくウェア可能な、そこに技術の存在を感じさせない、ある意味透明な存在と化した、ウェアラブル・コンピュータの時代になっていると思います。
コンピュータとネットワークは、それを自然にウェアすることによって、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションをより円滑にサポートできます。赤ん坊やペットを抱きしめながら、その感動を共有することができます。
恋人同士は、タッチしたりハグしたりしながら、お互いの大切な記憶をレコード出来ます。ナビゲーションもショッピングも、その場その時の状況に応じて、リアルタイムにサポートを受けながらエンジョイすることが出来ます。
7年後、オリンピックゲームス開催中のメガシティ東京での光景です。多くのビジター達がウェアラブル・コンピュータを自然に身に付けている。それはユーザーの状況やニーズに応じて臨機応変に働く極めてアクティブなデバイスです。
私達は初めて出会った(新たな)友人といかなる言語であろうと、その場その時に翻訳されるツールを使って自在に会話することができます。
だけでなく、お互いのバックグラウンドや経験をその場でシェアし合って、それこそ長年の友人であったかのような温かい関係をその場その時に構築することが出来ます。
あなたは、大好きなサッカー選手を愛する仲間を東京駅で発見して、すぐに友だちになれるでしょう。そして、あなたはサッカースタジアムに向かいますが、道案内や乗り換えも、自分の今見えている、目の前の光景に、自然にポップアップして、とてもわかり易くナビゲートされます。
道すがら、とても美味しい、日本食や日本のお茶にありつけるでしょう。ハズれ無い、とてもエンジョイ出来るガイドです。
そしてサッカースタジアムに到着します。ウェアラブル・コンピュータを身に付けていることで、自分(の視点)が追いかけている選手のヒストリーやプロフィールがその場で分かります。
試合を観る醍醐味が最大化します。あるいは、選手の視点、監督の視点、はたまたスタジアムの何万という観衆の視点を借りて、全く違うビュー・アングルから追いかけることも出来ます。
さらに、そのあなたが眺めている視点は故郷の家族や友人と接続されています。あなたの視点とあなたの聴覚が、それぞれリアルタイムに自国のインティメート・パーソンのところまで、瞬時に届けられるのです。
それだけではなく、その場で試合の経過を通じてライブに盛り上がりながら、コミュニケーションを楽しみながらの試合観戦が出来ます。
あなたは東京の街を歩きながら、試合のピークで盛り上がって、、東京の地下鉄ですれ違いざま、(目と目が合うだけで)全く知らなかった同士が、お互い感動でハイタッチする。ハグする!そういうエモーショナルな瞬間が訪れるのも目前のことです。
我々は、そういった、瞬間に、全く知らない同士でも、お互いがお互いを理解し、共感し、感動を分かち合えるような、そんなウェアラブル・コンピュータの原型(=一号機)になるべく、テレパシー・ワンというデバイスを現在、開発中です。
サンクス・オール!