以心伝心記

Technology is anything that wasn’t around when you were born.

ベイビーをよろしく!

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さて、ドキドキの新製品、ベイビーの米国ローンチを控えて、ベイビーの様々なコンテンツやグッズを公開していきます。来週は東京滞在予定なので取材のお申し出は是非!

ベイビーアプリは5秒間の声だけで、現実に会わなくてもおしゃべりできる友達を発見することのできるアプリです。

同じ街の、知らない同士、でも声を聴いて話してみたい!と思ったら、気軽に声を掛けてみて下さいね(最初はベイエリア中心に展開しますよ)。

 

今ベイエリアではAirPodsやEcho/Alexaなど、声のインターフェイスが着々と広がりを見せています。

が、ソーシャルな繋がりや人同士のコミュニケーションは未だテキスト主体です。それをもっとエモーショナルなおしゃべりへと変化をさせようとしているのが、このベイビーなのです。

では、どうやって五秒の声(によるメッセージ)で人とつながり、そしておしゃべりを楽しむのか?簡単に動画にしました。御覧ください!

vimeo.com

開発当初、僕が最初に思ったのは、人は孤独でとっても寂しいとき、人とおしゃべりをできると最高に救われる!に違いない、という「人とおしゃべり」への動機づけだったのでした。

そして、それと向き合い続けた成果が、このベイビーなのですが、まだまだ未完成です。皆さんのご利用とフィードバックを通じて、日々製品の改善改良を進めていきたいと思っています。なにとぞ、今後共よろしくお願いします!

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テレパシーをよろしく!

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2016年7月末をもって、テレパシージャパンのフェローを退任しました。これは当初取り決めた二年間の任期を終えたことによるものです。お陰さまで、テレパシーは製品のローンチのみならずクラウドファンディングの成功を遂げ、その後も多くの関係各社の皆様やクライアント企業の皆様から絶大なご支持をいただき、特に BtoB 市場での地歩を着実に固めつつ有ります。この二年のテレパシー経営陣および開発チームの皆さんの精力的な活躍と地道な日々の努力は本当に素晴らしく、私自身心から誇りに思っています。
今後はひとりのテレパシーファンとして、益々飛躍発展するテレパシーを応援する立場として見守っていきたいと思っています。2016年は、Oculus Rift, Vive, HoloLens のみならずポケモンGoの大成功を受け、ARVR市場はますますホットに盛り上がった年だと言えます。テレパシーの将来像、未来のあるべき姿はどう考えても大きなものであり、ARVRインダストリーの一翼を担うテクノロジーカンパニーとして、ますます重要性を増していくものと思います。ぜひとも皆様の相変わらずのご支援とご愛顧を何卒心より宜しくお願い致します!

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起業家は海を超えるべきか?

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ファーストペンギンさんの取材を終えて。

海外に進出する必要があるのか?という問いかけについて。

そもそも、海外市場に進出しないのはナゼだろうか?進出しないというチョイスが果たしてあるのだろうか?では、進出しないことの理由や根拠ってなんだろう?
例えば、電力を発明したとする。それが電話でも、電車でも、はたまたラジオでもテレビでも良いけど、それが自国内の普及だけで良いと思ったりするだろうか?
あるいは映画でもオーディオでも何でも良いけど、それこそパーソナルコンピュータを発明したとして、それを自国内の利用に留める理由があるのだろうか?
どう考えても国内の普及で良いはずがない。それを為さないのは想像力の欠如以前に、誠意とか良心の欠如ではないだろうか?
世界にとって価値のあるものを自国内のみに留める積極的な理由が思いつかない。
では、逆に、それがとっても大変なんだ!という側面から考えるとして、では、それはどの程度大変なのだろうか?
たとえば進出コストがかかるとか、言葉が通じないとか、様々な制度の違いとか習慣の違いとか、生活レベルの違いとか、資金獲得の困難性とか、でも、それが本質的根源的に物凄く大変かというと、どうもそうは思えない。
言語は学習すればよいのだし、制度や習慣は慣れれば良い。生活レベルというのも要は慣れだろう。そういう意味では、資金獲得も同じく慣れの問題でしか無い。もし、それらが大変というのなら、その大変さを乗り越えるための工夫や努力の問題に分解還元すれば良いだけに思える。
じゃあ、国内から海外へという流れはどうだろう?
でも、それはそもそも大変さを増すだけのように思える。国内に最適化された製品は海外に輸出することが大変だ。国内のチームや資金だけで世界規模の製品普及を成し遂げられるだろうか?才能も人材も技術も国内に限定することには、非常なリスクが有るだろう。
それを乗り越えるためにこそ、国内の限られたアセットのみに依拠せず、世界規模の良い人材、技術、資本、支援を益々手にするべきだろう。その為のスタディとしても、国内に逗まらずに世界に向けてドンドン出て行くべきだ。それは論を俟たない、当然の行動だと思う。
そういった切磋琢磨や創意工夫をお互いが共有し、高め合う起業家環境を創造することには強く惹かれる。それをせず狭い国内に留まることを正当化し、お互いを慰め合うような消極的な姿勢には意義を覚えない。それは自らの発明の価値を自らの行動圏内のみに留めるエゴイスティックな考え方だと思う。 
 

人は声だけで繋がり合えるのか?

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ロボットの開発が、どこをどうしたらコミュニケーションアプリの開発に至るのか?っていのは非常に説明がしづらい。

でも、音声で対話する無垢な人工知能が、ロボットとしての形を取るプロセスを練れば練るほど「心」をどう機械化するのか?の根源的課題の巨大さが分かってくる。

だから、その「話す」という行為のデジタル化はベイビーに不可欠だということが分かってくる。なので、このアプリはとても遠回りに見えてその実、非常に手堅く効率的なパスだと考えている。

とはいえ、それを多くの人達に日々使ってもらえるような社会環境を作らないかぎり、それこそ絵に描いた餅だ。

二月からはサンフランシスコでベイビーアプリの実用試験だ。構造はとても簡潔なのだけど、声で人が繋がり合うというある種非常に人間的で生々しい体験が受け入れられるか?飽きずにコツコツ進めます。

 

コミュニケーションアプリはまだ終らない。

Peach App はとてもおもしろい。

個人的なタイムラインを作りながら、ときどき絡みあうような感じ。オンボーディングでマジックワードという仕様はSlackのコンシューマバージョンとも言えるし、年上向けのSnapChatとも言えるし、言う人によっては新しい時代のTumblrとも。

でも、やっぱり思うのはコミュニケーションアプリに終わりはない。ということ。何だか、もう出終わってしまってこれ以上もういいよ!ってなった後にこそ新しい物が出てくる。

2015年はメッセンジャー的なテキストチャットの可能性が全開だった。その手前では、音声通話アプリの巨大な成長が有った。そして2016年は?という時に、Peachに限らず新しい物が出てくる可能性を非常に強く感じる。

 

テレパシーの頃に考えていたのは、親しい5名限定のリアルタイム映像共有アプリだった。ああいうアイデアは今ならもっと多くのデバイス上で試せる。しかも、スマートフォンアプリとしてもますますニーズが高まっている(たぶんペリスコープやミーアキャットなどの影響が大きい)ので、2016年ならもっといろんな事が出来そうだ。

デバイスの構築は、同時に新しいアプリケーションの孵化器を作ることに等しい。アプリケーションの開発を考えられる人にはとても大きなチャンスだと思う。

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What i want to do

社会の中での個人。

個人の自由は、どの程度か?

社会への働き掛けと、社会からの働き掛け。

自分が行動する上で当然だと思う基準が有るとして、それは社会と不可分の関係だ。

でも、それをどう意識し、どう行動するのか?の自由度の幅が、その人の社会的ポジションニングだと思う。

 

起業家の面白いのはそのポジションを比較的自在に選べることと、その選択によっては社会にもある程度の影響を与えられることがあるということ。

経済価値はその影響力の目安にはなるけど、その影響をもたらす本質は「価値の創造」にほかならない。

 

要するに自分がやりたいのは、新しいコミュニケーションを作るということだ。

で、それは社会の風通しや生き方を変える部分があるだろう。

だから、多くの人はそれを恐れるし抵抗もする。変化は面倒だし苦痛も有る。

さらになぜ変えないといけないのか?なんて必然性は誰もわからない。製品価値なんて、極めてミクロな視点の極小解にすぎない。

やりたいことは、結局やりたいからやるに帰着する。

でも、それを継続する上で言葉もお金も人も影響力も必要になるのだから、それをやるために工面もすれば行使もする。

いかにエレガントでスマートであろうがその根本はやりたいからやるだろう。その経済価値も文化的意義も、ある意味言い訳みたいなものだ。

 

思慮深いとか、配慮が有るとか、言葉が重厚とか、思いやりがあるとか、実は問題かもしれない。

新しい仕事は簡潔な言葉で勢いを持ってやり遂げられるものだから、遠慮深く思慮に満ちた関係性や組織性には合わない。

馬鹿みたいな言葉で生き急いでいるようなチームの方がしっくりくる。大人は損だ。

 

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World is not mine.

だんだんフェイスブックを生活習慣から抜いていくと非常に快適だなあ。これがないと駄目な感じがすごくダメだった。無くてもぜんぜん問題ないぞ!(ってくらいハマっていたに違いないと、改めて気付く)。

 

フェイスブックで繋がっている範囲で物事をみてしまうのは、やはりいくらなんでも狭すぎるだろう。

その外側にどれだけの人がいて、それだけの視点があるのか?すらイメージしづらくなる。

繋がりがない人達、つまり日頃の関係性の外側にとても豊かな喧騒と静粛が有るのを忘れてしまう。

繋がりがあるから分かり合えるのか?そして繋がりがあるから助け合えるのか?本当はまったくそんなことはない。現実の世の中では、直接繋がり合っている人たち以外とも大いに助けあっているではないか?

 

本質的には誰もが誰かを助けている。知らない人と声を掛け合い、その刹那にお互いの力を分かち合えたらそれは幸福だ。相互の信任が不用意にすぐ出来るなら、それは幸福だ。言葉や慣習や既存の関係性とか社会的な縛りなどとは関係なく、お互い通じ合える世界観を表すウェブやアプリケーションはまだ不足している。

互助精神が既存の付き合いや顔見知りに限られると考えたら、世の中は狭すぎる。

まったく知らない同士、言葉さえ通じない同士、国も民族も違う同士、習慣や文化が違う同士ですら、お互いが通じあって助け合えるなら?

きっと、そのほうが大きく広い。もっと未来的な世界だ。

 

無前提にお互い分かり合えるし、お互いが助け合えるという世界観はそんな奇異なものじゃない。でも、それが立ちゆかなかった不幸な過去の歴史があるのも事実で。それがテクノロジーでより良くなる方向に寄与したいものだ。

言葉の発明は凄い!とずっと長い間思っていたけど、その言葉が持っているシステムや環境面での影響(相互作用)を忘れていた気がする。

言葉は秩序や制度や社会的圧力と無関係じゃないから言葉単体でどうこう言っても無理がある。道具は社会と対応している。で、ウェブとかアプリというのは、その言葉システムにバイアスを掛けるようなことろがあって...

 

言葉が前提としている社会をテクノロジーが書き換えるというのは凄いことだ。

 

ある映画で、知識をひけらかしながらThank you Wikipediaなんていうシーンが有った。このフレーズは今の僕らにはしっくり来るけど、十年前だとまるで分からないだろう。

今僕らが昔の生活を映画で見ていても、そこに携帯やインターネットがあたかも有るかのように見ていないだろうか?

facebookの到達点の向こう側。繋がりがない同士ですら(だからこそ?)相互の助け合いが自然に生まれる仕組み。それはどうすれば可能だろうか?ソーシャルやシェアの更にその先を考えたい。要するに、世界はもっと広い。そんなことを考えている。

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