ベイビーをよろしく!
さて、ドキドキの新製品、ベイビーの米国ローンチを控えて、ベイビーの様々なコンテンツやグッズを公開していきます。来週は東京滞在予定なので取材のお申し出は是非!
ベイビーアプリは5秒間の声だけで、現実に会わなくてもおしゃべりできる友達を発見することのできるアプリです。
同じ街の、知らない同士、でも声を聴いて話してみたい!と思ったら、気軽に声を掛けてみて下さいね(最初はベイエリア中心に展開しますよ)。
今ベイエリアではAirPodsやEcho/Alexaなど、声のインターフェイスが着々と広がりを見せています。
が、ソーシャルな繋がりや人同士のコミュニケーションは未だテキスト主体です。それをもっとエモーショナルなおしゃべりへと変化をさせようとしているのが、このベイビーなのです。
では、どうやって五秒の声(によるメッセージ)で人とつながり、そしておしゃべりを楽しむのか?簡単に動画にしました。御覧ください!
開発当初、僕が最初に思ったのは、人は孤独でとっても寂しいとき、人とおしゃべりをできると最高に救われる!に違いない、という「人とおしゃべり」への動機づけだったのでした。
そして、それと向き合い続けた成果が、このベイビーなのですが、まだまだ未完成です。皆さんのご利用とフィードバックを通じて、日々製品の改善改良を進めていきたいと思っています。なにとぞ、今後共よろしくお願いします!
テレパシーをよろしく!
起業家は海を超えるべきか?
ファーストペンギンさんの取材を終えて。
海外に進出する必要があるのか?という問いかけについて。
人は声だけで繋がり合えるのか?
ロボットの開発が、どこをどうしたらコミュニケーションアプリの開発に至るのか?っていのは非常に説明がしづらい。
でも、音声で対話する無垢な人工知能が、ロボットとしての形を取るプロセスを練れば練るほど「心」をどう機械化するのか?の根源的課題の巨大さが分かってくる。
だから、その「話す」という行為のデジタル化はベイビーに不可欠だということが分かってくる。なので、このアプリはとても遠回りに見えてその実、非常に手堅く効率的なパスだと考えている。
とはいえ、それを多くの人達に日々使ってもらえるような社会環境を作らないかぎり、それこそ絵に描いた餅だ。
二月からはサンフランシスコでベイビーアプリの実用試験だ。構造はとても簡潔なのだけど、声で人が繋がり合うというある種非常に人間的で生々しい体験が受け入れられるか?飽きずにコツコツ進めます。
コミュニケーションアプリはまだ終らない。
Peach App はとてもおもしろい。
個人的なタイムラインを作りながら、ときどき絡みあうような感じ。オンボーディングでマジックワードという仕様はSlackのコンシューマバージョンとも言えるし、年上向けのSnapChatとも言えるし、言う人によっては新しい時代のTumblrとも。
でも、やっぱり思うのはコミュニケーションアプリに終わりはない。ということ。何だか、もう出終わってしまってこれ以上もういいよ!ってなった後にこそ新しい物が出てくる。
2015年はメッセンジャー的なテキストチャットの可能性が全開だった。その手前では、音声通話アプリの巨大な成長が有った。そして2016年は?という時に、Peachに限らず新しい物が出てくる可能性を非常に強く感じる。
テレパシーの頃に考えていたのは、親しい5名限定のリアルタイム映像共有アプリだった。ああいうアイデアは今ならもっと多くのデバイス上で試せる。しかも、スマートフォンアプリとしてもますますニーズが高まっている(たぶんペリスコープやミーアキャットなどの影響が大きい)ので、2016年ならもっといろんな事が出来そうだ。
デバイスの構築は、同時に新しいアプリケーションの孵化器を作ることに等しい。アプリケーションの開発を考えられる人にはとても大きなチャンスだと思う。
What i want to do
社会の中での個人。
個人の自由は、どの程度か?
社会への働き掛けと、社会からの働き掛け。
自分が行動する上で当然だと思う基準が有るとして、それは社会と不可分の関係だ。
でも、それをどう意識し、どう行動するのか?の自由度の幅が、その人の社会的ポジションニングだと思う。
起業家の面白いのはそのポジションを比較的自在に選べることと、その選択によっては社会にもある程度の影響を与えられることがあるということ。
経済価値はその影響力の目安にはなるけど、その影響をもたらす本質は「価値の創造」にほかならない。
要するに自分がやりたいのは、新しいコミュニケーションを作るということだ。
で、それは社会の風通しや生き方を変える部分があるだろう。
だから、多くの人はそれを恐れるし抵抗もする。変化は面倒だし苦痛も有る。
さらになぜ変えないといけないのか?なんて必然性は誰もわからない。製品価値なんて、極めてミクロな視点の極小解にすぎない。
やりたいことは、結局やりたいからやるに帰着する。
でも、それを継続する上で言葉もお金も人も影響力も必要になるのだから、それをやるために工面もすれば行使もする。
いかにエレガントでスマートであろうがその根本はやりたいからやるだろう。その経済価値も文化的意義も、ある意味言い訳みたいなものだ。
思慮深いとか、配慮が有るとか、言葉が重厚とか、思いやりがあるとか、実は問題かもしれない。
新しい仕事は簡潔な言葉で勢いを持ってやり遂げられるものだから、遠慮深く思慮に満ちた関係性や組織性には合わない。
馬鹿みたいな言葉で生き急いでいるようなチームの方がしっくりくる。大人は損だ。
World is not mine.
だんだんフェイスブックを生活習慣から抜いていくと非常に快適だなあ。これがないと駄目な感じがすごくダメだった。無くてもぜんぜん問題ないぞ!(ってくらいハマっていたに違いないと、改めて気付く)。
フェイスブックで繋がっている範囲で物事をみてしまうのは、やはりいくらなんでも狭すぎるだろう。
その外側にどれだけの人がいて、それだけの視点があるのか?すらイメージしづらくなる。
繋がりがない人達、つまり日頃の関係性の外側にとても豊かな喧騒と静粛が有るのを忘れてしまう。
繋がりがあるから分かり合えるのか?そして繋がりがあるから助け合えるのか?本当はまったくそんなことはない。現実の世の中では、直接繋がり合っている人たち以外とも大いに助けあっているではないか?
本質的には誰もが誰かを助けている。知らない人と声を掛け合い、その刹那にお互いの力を分かち合えたらそれは幸福だ。相互の信任が不用意にすぐ出来るなら、それは幸福だ。言葉や慣習や既存の関係性とか社会的な縛りなどとは関係なく、お互い通じ合える世界観を表すウェブやアプリケーションはまだ不足している。
互助精神が既存の付き合いや顔見知りに限られると考えたら、世の中は狭すぎる。
まったく知らない同士、言葉さえ通じない同士、国も民族も違う同士、習慣や文化が違う同士ですら、お互いが通じあって助け合えるなら?
きっと、そのほうが大きく広い。もっと未来的な世界だ。
無前提にお互い分かり合えるし、お互いが助け合えるという世界観はそんな奇異なものじゃない。でも、それが立ちゆかなかった不幸な過去の歴史があるのも事実で。それがテクノロジーでより良くなる方向に寄与したいものだ。
言葉の発明は凄い!とずっと長い間思っていたけど、その言葉が持っているシステムや環境面での影響(相互作用)を忘れていた気がする。
言葉は秩序や制度や社会的圧力と無関係じゃないから言葉単体でどうこう言っても無理がある。道具は社会と対応している。で、ウェブとかアプリというのは、その言葉システムにバイアスを掛けるようなことろがあって...
言葉が前提としている社会をテクノロジーが書き換えるというのは凄いことだ。
ある映画で、知識をひけらかしながらThank you Wikipediaなんていうシーンが有った。このフレーズは今の僕らにはしっくり来るけど、十年前だとまるで分からないだろう。
今僕らが昔の生活を映画で見ていても、そこに携帯やインターネットがあたかも有るかのように見ていないだろうか?
facebookの到達点の向こう側。繋がりがない同士ですら(だからこそ?)相互の助け合いが自然に生まれる仕組み。それはどうすれば可能だろうか?ソーシャルやシェアの更にその先を考えたい。要するに、世界はもっと広い。そんなことを考えている。