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以心伝心記

Technology is anything that wasn’t around when you were born.

World is not mine.

だんだんフェイスブックを生活習慣から抜いていくと非常に快適だなあ。これがないと駄目な感じがすごくダメだった。無くてもぜんぜん問題ないぞ!(ってくらいハマっていたに違いないと、改めて気付く)。

 

フェイスブックで繋がっている範囲で物事をみてしまうのは、やはりいくらなんでも狭すぎるだろう。

その外側にどれだけの人がいて、それだけの視点があるのか?すらイメージしづらくなる。

繋がりがない人達、つまり日頃の関係性の外側にとても豊かな喧騒と静粛が有るのを忘れてしまう。

繋がりがあるから分かり合えるのか?そして繋がりがあるから助け合えるのか?本当はまったくそんなことはない。現実の世の中では、直接繋がり合っている人たち以外とも大いに助けあっているではないか?

 

本質的には誰もが誰かを助けている。知らない人と声を掛け合い、その刹那にお互いの力を分かち合えたらそれは幸福だ。相互の信任が不用意にすぐ出来るなら、それは幸福だ。言葉や慣習や既存の関係性とか社会的な縛りなどとは関係なく、お互い通じ合える世界観を表すウェブやアプリケーションはまだ不足している。

互助精神が既存の付き合いや顔見知りに限られると考えたら、世の中は狭すぎる。

まったく知らない同士、言葉さえ通じない同士、国も民族も違う同士、習慣や文化が違う同士ですら、お互いが通じあって助け合えるなら?

きっと、そのほうが大きく広い。もっと未来的な世界だ。

 

無前提にお互い分かり合えるし、お互いが助け合えるという世界観はそんな奇異なものじゃない。でも、それが立ちゆかなかった不幸な過去の歴史があるのも事実で。それがテクノロジーでより良くなる方向に寄与したいものだ。

言葉の発明は凄い!とずっと長い間思っていたけど、その言葉が持っているシステムや環境面での影響(相互作用)を忘れていた気がする。

言葉は秩序や制度や社会的圧力と無関係じゃないから言葉単体でどうこう言っても無理がある。道具は社会と対応している。で、ウェブとかアプリというのは、その言葉システムにバイアスを掛けるようなことろがあって...

 

言葉が前提としている社会をテクノロジーが書き換えるというのは凄いことだ。

 

ある映画で、知識をひけらかしながらThank you Wikipediaなんていうシーンが有った。このフレーズは今の僕らにはしっくり来るけど、十年前だとまるで分からないだろう。

今僕らが昔の生活を映画で見ていても、そこに携帯やインターネットがあたかも有るかのように見ていないだろうか?

facebookの到達点の向こう側。繋がりがない同士ですら(だからこそ?)相互の助け合いが自然に生まれる仕組み。それはどうすれば可能だろうか?ソーシャルやシェアの更にその先を考えたい。要するに、世界はもっと広い。そんなことを考えている。

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