プログラムを書くという最高の快楽 - 自分が二十歳だった頃にとってもハマっていた事を改めて振り返る -
ソフトを書くっていうことは、それを覚えた当時から思考を表現して伝達することだと感じていた。文書を書くよりも、より正確に、より動的に、より完璧に思考を表現して伝達することができる!これがなにより凄いと思っていた。
ソフトを書くという行為そのものは実は多くの側面がある。収入を得る手段だったり、好きなことを形にできる趣味であったり、生産性の道具で、創造性の媒体で、仕事の手段で、自己実現の方法で、学習のプロセスで、計算のための記述方法で、、など様々だ。
だが、個人的には(当時哲学科の学生だったからか)知識を動作する状態で記述できるだけでなく、それをそのまま直接的に受け渡せるという、完璧な思考のメディアであると感じていたのだ。
思考そのものをダイナミックに表現できて、しかも、それをそのまま受け渡せる最高のメディアだと。
それを展開すると、たとえばどんな本でもその論理構造をプログラムに置き換えられるだろう。
あるいは、それは法律だろうが商習慣であろうが、はたまた教育であろうが道徳であろうが、何であったとしてもコードとして外部化し、共有するだけでなく、その書き手本人以外が、直接それらを書き換えられる(上書きできる)素晴らしく効果的な、人類的規模で利用できる思考巨大メディアになり得るのだと確信することができた。
そういう直感の得られた背景は、当時自分が仏教的唯物論やタオイズムの二進法的世界観やヒルベルトの記号論理学などにとてもはまっていたせいかもしれない。
ライプニッツからヒルベルト、そしてゲーデル、チューリングやノイマンを通じて電子頭脳として結実していく、西洋的な普遍知識を巡る系譜が、なにより自分の心を捉えていた。人がその知恵を透明に、脈々と受け渡し、お互いの理解と発展を促進していこうとする善い心の発露をそこに観たのだ。だからこそ、その運動の究極系としてのプログラムには、になにより可能性を感じていたのだ。
だから、プログラムを書くということは、本来すごく崇高で気高い精神の発露のように思えて仕方ないし、また、オープンソースという概念は、それ自身プログラムのコアにある価値観の表現として極めて自然なスタイルであると言えると思う。
自分自身の今のテーマとしては、そういった人類的規模における知識の伝達および発展メディアとしてのプログラム行為を再度、捉え直す。
特に創造的なプログラミングのパラダイムを軸足として、特に「物と心の相互作用」、つまりIoT( Internet of Things )的な文脈で、いかに素晴らしい開発環境が表現できるのか?と言う視点。そこからもう一度、自分の仕事を見直してみたいと思ってる。
考えてみると、ゲーデルの不完全性定理がとても話題になっていた学生時代に、記号論理学や易経に虜になっていたり、やがて、たまたま偶然プログラミングに没入する機会を得ることのできたのが二十歳の頃。それはまさに人生の大きな転換点だったんだと、今更の様に思う。そして、何がいったいどう人生に作用するのか?なんて、その瞬間には本当に全くわからないものだなあと思うのだ。