ウェアラブルの近未来 "ソフトウェアの物理化"こそがハードウェアの真髄だ。
もしかすると、みんなもうITに飽きているのかもしれない。そう感じることが多い昨今です。
ウェアラブルデバイスは来る2014 CESでは百花繚乱でしょうし、2014SXSWでも鍵になるのは「ハードウェア」でしょう。もはや多くの人たちが"ソーシャル何とか"や"クラウド何とか"に飽きかけていると感じます。パイオニア精神が、既にソフトウェアの受け持つ守備範囲内から飛び出そうとしているのです。
ソーシャルネットワーク市場はfacebookの生態系が世界規模で多くを覆ってしまいました。このままでいくとO2OやM2Mのリアルワールドコンピューティングもそのまま持って行かれるかも知れません。勝者は総てを取る!です。
ですが、その一方「物作り」は、例えばアンドリーセン・ホロビッツや500スタートアップスなどは、どうも意識的に避けていますのではないか?と見えます。
これだけ安価にウェブサービスやスマホアプリを事業家出来る世界で、なぜ在庫リスクやR&Dリクスの高いハードウェアをスタートアップする必要があるのか?(VCの多くの識者は)ハードウェアは時間が掛かるし、物や設備を抱えることの怖さもある。これは避けた方が良い!とずっと言い続けています。
逆に言えば、「ここは危険だ。ここはヤメておこう」というのは寧ろ良い兆候ではないかと思わざるを得ません(テスラはシリコンバレーのど真ん中の企業ですし、民間宇宙開発企業のSpaceOneに出資しているメンツも同じ様な顔ぶれが多く見かけられますから、ハードウェアはシリコンバレーの範疇外だとは言い切れませんね。ただ、スタートアップの領域としては極めて不人気です!)
でも、そもそもみんな(多くの発明家的起業家を筆頭に、それこそ物心ついたばかりの少年少女からして)モノ作りが大好きなのではないでしょうか?人は、ある種、根源的な部分で新しいアイデアでハードウェア(機能する物)を作り出す事に強く惹かれ続けているのではないでしょうか?
しかも、メイカーズに視られるように形あるものを開発し、それらを様々なクラウド・サービスやアプリケーションとつなぎ合わせることはもはや特別なことでもなんでもありません。情報化がされたハイテクデバイスは既に誰もが週末に開発可能な物と化しているのです。
以前は、「ソニーは何故あれだけの技術と資本と人材と大いなる影響力を持ちながら、なぜ独自OSを開発しないのだろうか?」と思っていたのですが、そもそもそれは発想として間違っていた気がします。
つまり、あれだけの技術と資本と人材と影響力が有るからこそ開発出来なかったのではないか?と(ロボットOSやゲームOSが存在した事は事実ですが、アンドロイドやiOSの現状を考えると相互においては余りに存在感が違います)エクスペリアもバイオもそれぞれ他社のOSの上で動作していますし、Google TV以降の動向を見ても、本気でソフトウェアプラットフォームを自前で開発しようという強いコダワリを感じることは出来ません。
「もしソフトに真剣に臨むなら、そのソフトのためのハードも自らつくらなければならない」というのはアランケイの名文句ですが、ハードで多くの偉業を成し遂げて来たはずのソニーが、その一方ではソフトに真剣でなかった。だからこそ、素晴らしいソフトウェアのために存在するべきハードウェアも著しく魅力を失ってしまっています。
我々は(ビジネスマンとしては)ハードウェアを開発する事にひどく億劫です。ハード開発は他人がやるべき物だと思い込んでいる部分が相変わらずあります。
でも、ハードウェアとソフトウェアとの境界線は本当に曖昧になっているのです。本当にソフトに真剣であれば、ハードを考える必要がある。あるいはハードを度外視して、ソフトだけ考えても限界があるとさえ考えます。
ソニーの出来なかった事を残念だと(日本人起業家として)言うだけでは単なる嘆きに過ぎず、それはただの思考停止でしょう。ハードウェアは、もはやソフトの外側にある"血の通わない、ベルトコンベアを流れる退屈な大量生産品"というよりは、ソフトと一体化して人とのインターフェイスになる、ニュアンス豊かな、心通う存在なのです。
今あるデバイスとOSの上でのみアプリケーションを考えるのは、もう旧い/狭い視点なのではないか?と感じます。グーグルグラスはある意味グーグルプラスデバイスです。日々身に付けて様々なセンサー入力を人間的にキャプチャーして、タイムラインにログ化していくデバイスです。
テレパシーはデジタルコミュニケーションを非常に親密に暖かい体験として身にまとうことが出来るデバイスを志向して開発しています。それはまさにソフトウェアデバイスなのです。そういうモノづくりが真価を問われ、新たなハードウェアとソフトウェアのパラダイムを創造できるのか?が2014年こそは問われるのだと考えています。