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以心伝心記

Technology is anything that wasn’t around when you were born.

ガラパゴスから出る必要が有るのだろうか? - ニューヨーク日誌その1

 日本だとそういうことを考えることは余りないのだけど、北米東海岸(たまたまそこにいるというだけなのですが)から日本のソーシャルフィードを眺めていると、なんだかすごく妙な気分になることがある。

「世界に出る」「グローバルに活躍する」「日本のガラパゴスから抜けだそう」「世界を見て仕事をしよう」.... 根本的に世界には「出て行く」もので、日本はそこから必ず「出る」べき場所であり、常に世界を外に意識して島国の限界を超えないといけない... ことがある種の正義であり普遍原理でもあるかの様だ。

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でも、そもそも「内と外」があり「内から外に」出ないといけない。世界という舞台に意識も行動も飛び出していくべきであるという前提はなんだか妙だ。それはその価値観がどうしたというよりは、「内側と外側」が有るという前提がドスンと存在することへの違和感だ。

そして、その内側から外側に(恐る恐る勇気を振り絞って、あらゆる武装をして、言語やノウハウの装備を伴って)出て行こう!という主張はなんだか無理がある。それは外から眺めているとある種の神経症的な脅迫観念のように切羽詰まって見える。

もしかすると誰も日本人にそんなことは求めていないかもしれない。そもそも「日本人」という典型が日本人の意識のなかでは自明なのだとしても、その「日本人」は日本人にとっての日本人と言うだけかもしれない。それは非常に限られた物の見方だ。

世界にはあらゆるナショナル・アイデンティティがあるし、その多様性は実にバラバラでカオス的だ。日本人の日本人イメージはあくまで日本人の意識の反映にすぎないからそこには一定の固定概念がある(良い悪いではなく、そういう鋳型があるというだけの事だ)。

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テクノロジーの世界で起こっていることも日本人としては「外での出来事」を内側で眺めている構図から逃れられない。だから、シリコンバレーを語るときも外側=異世界の出来事にすぎない。そして出て行くべきか?出ないべきか?出るとしたらどこなんだ?という議論がカシマシイ。

でも、そもそも「出る」という視点や行動パターンに一定の「ハマリ」がある。出て行くという以前に、そのテクノロジーが本物の凄さを持っていれば人は「来る」かも知れないし、それを広げる際に出発地点がどこだとしても、自らドンドン自らが「出して」行けるものなのかもしれない。

それがどこから来たテクノロジーなのか?よりもそれが物凄く世界を書き換えるものなのかどうか?こそがコアなのだから、シリコンバレーに行く行かない以前の問題として、それが「大きな」製品なのかどうか?が気になる。

そうなると、脅迫心理的な出る出ないよりもそれを待っている人がどこにどれだけ居て、その拡張拡散をどう拠点攻略的に見るのか?という戦略戦術の話に帰結できるだろう。それは島国から出る出ないとは異なる次元の話だ。

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そういう感覚で見るとシリコンバレーを作ろうとか、シリコンバレーに学ぼうとかそう言う潮流にもなんだか違和感がある。もっと普通に正面から正攻法でぶつかれる姿勢があれば、別にそんな面倒なことをしなくてもいいんじゃないか?と思わないでもない。

それこそ自分がシリコンバレーを刷新してやる!グーグルにしてもアップルにしても(どこでもいいのだけど)ビシバシ闘いぬく!っていうスタンスのほうが余りエクスキューズも無いし、なんだか媚びてる感じとか、すり寄っている感じがなくて潔いんじゃないのか?なんて想ったりする。

だいたい、同じ人間なんだしもっと自身持って堂々勝負したほうが楽しいんじゃないだろうか?ニューヨーク(ここはブルックリンのウィリアムヒルズなのでいろんな人種が日々ぶつかって良い感じの混沌状態です)のカフェでモクモク仕事をしながらそういうことを考えていました。さぁ、そろそろ仕事に戻ろう!♡