以心伝心記

Technology is anything that wasn’t around when you were born.

グーグルグラスもテレパシーワンも大きな壁に阻まれている。その1 - ウェアラブルの時代 -

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テレパシーが語られる際に必ず言及される元祖ウェアラブルデバイスのグーグルグラス。その提案する製品価値は必ずしもテレパシーの狙っているソーシャルコミュニケーション領域に限定されていませんが、インターネット環境を現実世界に浸透させ、シームレスに体験可能にしようとする方向性は本来非常に近いアイデアです。それぞれが持っている未来への強いビジョンや行動力は、これらの新しい価値観や(今までに存在しなかった)製品環境を広めていく際に必要となる文化運動的な原動力ではないか?と感じます。 

ところがその一方、グーグルグラスのチームがSXSWで開催したテクノロジー・カンファレンスの内容が公開されているのですが、驚くほど反響が少なく会場の盛り上がりが無いのはナゼだろう?と思うのです。

もしかすると「それは何のために提供され、それがどういった価値を届けてくれ、それが普及した結果どのような素晴らしい世界を創造するのか?」が巧く伝わっていないように感じます。そもそもウェアラブルデバイスが普通に使われるためには単なる技術的好奇心だけではブレークスルーできない大きな壁が有るように思います。

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話は変わって今面白くて読みふけっている本に「100の思考実験」と言う本があります。それは哲学や心理学、政治学、経済学、物理学など多岐にわたる思考実験を取り上げて「読むよりは考える」ことにフォーカスした本です。

その中でも非常に印象的だったのが「コウモリであること」と「ウサギだ!」のストーリーでした。

「コウモリ」の方は「コウモリの知覚世界を人は想像できるのだろうか?」という問いかけです。また、「ウサギ」の方は「言葉というのは全体としての理解の体系なのだから、ひとつひとつの言葉の意味だけ理解しても理解したことにはならない」という仮説です。

それらが物語っていることをウェアラブルデバイスの普及という文脈に置き換えると「そもそもウェアラブルデバイスがどういう存在で、どういう価値を与えてくれるのか?」というポイントはそう簡単に解決できない様に思えてきます。

「コウモリ」の感覚世界が理解出来ないようにウェアラブルデバイスのもたらす体験性が理解できない可能性がありますし、「ウサギ」の言葉が単体ではなく全体として存在しているようにウェアラブルデバイスの価値体系を物語る言葉が未だ成立していないのではないか?という懸念があります。

つまり、新製品の価値はそれを利用する側の文化体系や行動様式を無視して、抽象的に存在する訳ではないですから、開発者は社会的な文脈や受容過程を無視しては製品開発ができない。そういう悲観論に至る様にも思えます。では、その限界をいかに突破するのか?を考えてみたいと思います。