以心伝心記

Technology is anything that wasn’t around when you were born.

"インターネット、イノベーションそして学習について"に寄せて

インターネットはそれ自体が信念であり、信条

ジョーイの"インターネット、イノベーションそして学習について"が一部のテックパーソンの間で強い共感を呼んでいる。それはインターネットがそもそも存在しなかった時代と、それが存在することになって起こった意識革命を改めて思い起こさせる記事だ。

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実はNTTの第三代社長児島仁氏にインターネット黎明期の講義をジョーイがしたとき、これも黎明期のマルチメディアの講義をしたのが自分だった。そしてその時、NTT社長が「インターネットとはいったい何なのか?」を革命的意義として理解することは、恐らく非常に困難だったのではないかと想像する。

"インターネットは、本当は技術というよりも信念の体系、すなわち信条と呼べるものだ。(略)インターネットの信念体系とは、誰もが接続する自由、イノベーションする自由、そして誰の許可を得ずともあれこれといじくる自由を与えられるべきだ、というものだ。誰もインターネットの全容を知ることはできない。中央集権的に管理することは不可能で、イノベーションはネットワークの「外縁」で、小規模なグループによってもたらされる。

この信念体系は分散型革新者からなる巨大なネットワークを生み出した。インターネットの革新者は互いに基準を作り合い、その取り組みの成果をフリーかつオープンソースなソフトウェアという形で共有する。最近ではエレクトロニクス系や、物理的なデザインさえも共有しつつある。"

そうなのだ、インターネットはそれ自体が信念であり、信条なのだ。

それは管理不能の自由インフラなのだ。だからこそ、巨大企業の特権と言うよりは、むしろ持たざる側の主体的なイノベーションを促進するのだ。弱者に力を与える事で社会的なイノベーションを引き起こし続けているのがインターネットの本質だ。

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だからこそ、FREEで強力極まりないSearchを提供したGoogleは企業向けの検索サービスを圧倒的に駆逐し(そういう事実があった事さえ忘却される程に!)、個人と個人の間の繋がりをマネージする強力極まりないSocial Networkimgを提供するfacebookは、あらゆる社会組織のパワーバランスを圧倒的に個人向けにシフトしている。

頓智にしたって本来サイエンスラボラトリーの独占的な研究対象とも言えた拡張現実を当たり前の体験へと引きずり降ろし、もしもこれが日常の情報経済へと進化を遂げれば、その地域にしか存在しない超スモールビジネスは、当たり前の様に目前のユーザーに対して強力な情報ネットワークを作り出せるだろう。それは、マスプロダクト&マスマーケティングの大量消費に新たなイノベーションを引き起こすパワーシフトになるだろう。

 

持たざる者の革命のツール

最近凄く気になっているテクノロジーの分野が在る。それはクラウドやグローバルなブロードバンドの対極とも言えるPtoPのワイアレスネットワーキングだ。ここに非常に印象的な記事が有る。

"Jared Cohenは、Google IdeasのディレクターでEric Schmidtと一緒に本を書いている。その前は国務省の顧問だった。その彼が、Techonomyでプレゼンテーションを行った。

Cohenは、彼がイランで実際に見たGreen Revolution(緑の革命)を、そしてその次にはArab Spring(アラブの春)を研究した。

彼が気づいたのは、イランの若者たちはBluetoothは使っていたが、それはワイヤレスのハンドセットのためではなく、ピアツーピアでコミュニケーションするための技術としてだった。イランでは、30歳以上の人たちはBluetoothがなんたるかを知らない。

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そこで政府がSMSと携帯電話のセルネットワークを遮断しようとしたとき、抗議に参加した人たちはBluetoothで互いにコミュニケーションした(あの有名な“Neda”の射殺シーンの悲惨なビデオが、テヘランの街角からインターネットへ出ることができたのは、そのおかげだ)。

イランの抗議活動家たちは、その2年後のアラブの春のきっかけになったのかも知れない。”武器を持たず、モバイルデバイスしか持っていない若者が変化を起こせることを、それは教えた”、とCohenは言う。

彼によれば、”テクノロジは新しい指導者を作り出さない。それは、計画のない組織化と動員を容易に可能にする”。彼が予見する未来においては、”市民と国家がお互いを制御し合う。"

IVS KYOTOのワークショップで芸者の田中さんと話す中で出て来た良い比喩があって、それは「すれ違い通信が東京だとニンテンドッグに結実する一方、それがイランでは革命のためのコミュニケーションにも結実する世界」という面白い喩えだ。

確かにその通りで、アラブの春でよく取り上げられたのは、FacebookTwitter、あるいはYouTubeなどのコンシューマウェブが革命の媒介役としてより良く活躍したことだった。

コンシューマー製品が世界を変える

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頭の良い人達が書いたコラムにはTwitterFacebookも革命を起こしてはいない!と言う指摘があるのだけど、それが革命を起こしたかどうかはともかく、それが個人と個人の間の自由なコミュニケーションを通じてそういった事態を促進したことだけは事実だ。その価値観は「ゲームでさえ世界を変えられる」と言う視点となんら異ならない。

クリエーティブコモンズの国際会議でもシリアからのレポートが在ったのだけど、隠しカメラで個人撮影された暴力シーンをYouTubeに投稿して世界にそれを訴えかける行為は、彼らにとっては決死の行為だった。

が、それが個人=コンシューマー製品の利用者によって実に簡単に可能になっていること自体に大きな意味がある。

たとえばゲームという非常にカジュアルな技術分野で有効なファンクションが社会革命にも使えるとしたら、それは素晴らしい事だ。

たとえば中国に出張すると、TwitterFacebookが当たり前に使い得ない日常生活を体験出来るし、それはかなり息苦しく不自由な世界だ。

でも、その一方で日本の多くの巨大企業ではクラウドもソーシャルも利用を禁じられている。

それを学生起業家に話すと彼らは一様に「信じられない!」と絶句するのだけども、僕らが取引先にFacebookYouTubeで情報やコミュニケーションのシェアを行った場合に、まず問題無く進むことは無い(まず社内に稟議を通して穴を空けないと閲覧さえ出来なかったりする!)。

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日本の巨大企業は中国のグレートファイアーウォールより過酷で、アラブの春時点のイランよりも反革命的なのかもしれない。でも、それは翻って考えると、実は僕らの日常や労働の場面場面でもまだまだ不自由が多く温存されており、意外とそれらはいまだに不可視のままなのだと言う事だ。

巨大キャリアのNTTが当時の黎明期にあったインターネットの真価を見抜けなかっただろうことは、一面では技術トレンドの見通しの問題かもしれない。だが、その一方で、多くを持つ強者にとってはむしろ無用の長物だったことも否めないだろう(自由でオープンなサービスの開発提供を促進する事に、会社としてのの利益が有ると当時想像できただろうか?)。

持たざる弱者に力を与える事で社会的なイノベーションを引き起こし続けているのがインターネットの本質だとすれば、それは弱者の起業家サイドの方にこそ飛躍的成長の可能性と社会変革に於ける勝機があるということに他ならない。

 

イノベーションはあらゆる場所で起こっているし、起こせる

以前TechCrunchの記事で、シリコンバレーの起業家に激を飛ばす人がいた(面白い記事だった)。

それはつまり第三国の社会起業家が、たとえば貧困や病苦を解決する為に奮闘努力することに対して、シリコンバレーの連中は何らイノベーティブではなく、目前の実に矮小な世界観と価値観でインクリメンタルな改善改良的アイデアしか無い!といった主張だった。

でも、日本の起業家は未曾有の災害に直面し、国難を肌で感じ取り、日本人としてのプライドと意地を賭けて世界に新しいテクノロジーを展開しよう!という気概を持っているのだから、そういった意味ではシリコンバレー起業家よりもより高い目線で、より社会価値の高いイノベーションを押し進められる状況に有ると言える。これは恐らく非常に大きなチャンスだろう。

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そもそも「強きを挫き弱きを助ける」は日本のサムライ的価値観の根本であって、武士道は世界のあらゆる高貴な思想と比べても、何ら遜色の無い高度な社会貢献の意識だ。

 

弱者に力を与える事で社会的なイノベーションを引き起こし続けているインターネットの本質的価値を、自分たちでしか出来ない製品開発で世界に向けて発信し続ける事。この繰り返しをどんどん鍛錬して行く事。

それを信念を持ってやり続けられれば、その根拠地はどこであろうか関係無い。

むしろ、それが異端の地、異端の場であることが強い意味を持つこともある。たとえば、京都はテクノロジー集積地とはそれほど思われていないが、オルタナティブな日本の価値観を感じ取るには最適な地だろう。そして日本が経験した、最も直近の革命の地でもある。

そんなことを京都で考えた。革命のツールこそ、本気で自分を賭けたい仕事なのだ。