シンプリシティの法則
複雑さはアイデアの未整理を現している
ColorもPathも、実は思ったよりずっと良く出来ている。本質的なアイデアは良い。実装レベルも高い。デザインも、それ相応の完成度。撮影イメージをいかに意味を伴って集められるか?さらにそれらといかにエンカウンター出来るのか?をよく考えたデザインだと思う。
でも、撮影イメージに適切な意味を持たせる事、そしてそれらに効率よくエンカウンター出来ることに到達出来てない。恐らく、問題は情報の「量と質」の双方にあると思われる。
イメージの保存と、それとのエンカウンターに於ける「質と量」を解決するべき方法は実は案外簡単に思える。それには、アプリケーションが提供する体験性を極限まで簡単にすることでしかなし得ないのではないか?
そこには非常に簡単(シンプル)な"原理原則の欠如"がある。利用者のデザイアーに忠実である事と、それを利用者同士の満足にまで拡げるには"原理原則"の抽出と、その愚直なまでの実装および鍛錬が欠かせない。
ColorもPathもどうやら複雑過ぎる。利用出来る機能が多過ぎる。やれることが多岐にわたり過ぎている。出来る事は1つか2つ。しかも、その全体像や開発の背景が限りなく簡潔でなければいけない。物事を限りなく簡潔にする事は、同時に大きなエコノミクスをもたらすだろう。
シンプルは強い、シンプルは能弁だ。
それを成り立たせる原理原則に関しては、ある種の執念を伴った確信が不可欠だ。ユーザーはそういったコンフィデンス(覚悟ある"握り")に敏感だ。どんなアプリあるいはサービスでも、卓越した、素晴らしい体験価値を届けてくれる製品には、その背景に存在する理念または哲学への信奉があると感じる。
イノベーションの飛躍が有る新製品の場合、その教育・啓蒙期間、その中心的な価値に気付くまでのハードルを下げながら、とにかく最初はユーザーが馴染んで行くための準備期間が一定必要だ。MacintoshやiPodもそういう時期があったことは覚えておいても良い。最初からいきなりマウスやクリックホイールが普及した訳ではない。
TwitterやFacebookもその準備期間を経て、徐々に馴染んで行った。そして、その後に非常に楽しくなる瞬間が訪れる。多くの利用者がそれを受容する段階がやって来る。そこまでの長く暗いトンネルをいかに耐えるのか?それなりに時間の掛かる"学習期間の静けさ"をいかに耐え忍ぶのか?
そこで安易に製品をピボットしてしまうと、せっかくの"深く味わいある"独自の製品価値は(残念ながら)立ち上がらない。だからこそ製品の本質価値に横たわっている原理原則的な部分を深く鋭く問いかけて、強い確信を獲得する必要がある。あるいは、その確信は最初は余り無いのかもしれない。ただ、それを見出す作業、それを掘り起こして顕在化する作業、そして顕在化した価値を洗練させて行く作業、これをたゆまず続けて行くしか無い。